夏の小袖

読んだ本、活動の記録など

ことわざの射程

ウガンダにはこんなことわざがある」といれているとき、それはウガンダではこういわれている、という情報を聞いている。では、外国のひとに「日本にはこんなことわざがあってね」と教えるとき――それはどんなときか。

ウガンダにいるときかもしれない。ウガンダの犬を見て、「日本には『犬も歩けば棒に当たる』ということわざがあってね」と、ウガンダにいる誰かに教えているかもしれない。
日本にいるかもしれない。日本の犬を見て、「日本には『犬も歩けば棒に当たる』ということわざがあってね」と、ウガンダから来た誰かに教えているかもしれない。

ここで(仮に置いていたウガンダという情報を外して考えるのだけど)、じゃあ、外国とかから来た人に、日本のことわざはおおむね正しいとされている、と言い張ることはできるだろうか。それはできる。なぜなら、個人の意見を発表しているに過ぎないからだ。
では、日本のことわざは絶対に正しいからそれに従わなければならないと強制することは可能か。これは否である。これは言論ではなく、他人の精神や思想の自由に触れることだからだ。

「犬というのは歩いたら絶対に棒にあたるのだ!」という意見を他者へ押し付けることがどの程度可能なのかは分からない。「犬も~」ということわざくらいなら、どうでもいいかもしれない(深く考えてないだけ?)。
では、懸念すべきはどんなことわざか。
ここが、実は私のこの記事を書こうと思った出発点なのだけど、「郷に入っては郷に従え」はどうだろう?

「ローマへ行ってはローマ人のようにふるまえ」みたいな(うろ覚えだけど)、そんな言葉もある。だけど、似たような言葉がない地域の人がもし(日本人である)自分の隣にいたとき、「日本には『郷に入っては郷に従え』ということわざがあるのだ」と、それを無理強いすることは可能か。
私は、自分が日本にいようと、別の場所にいようと、それは不可能だと思う。なぜなら、ことわざは地域の文化という観念の縛りから抜け出せないからだ。そうじゃない、誰が何と言おうと誰がどこに行こうが、「郷に入っては郷に従え」ということわざを守らねばならない、という信念それ自体は、まあいい。問題は、それを他の文化圏の人間に強制することだ。

日本にいるから日本のことわざに従うべきだ、という主張は、それ自体が日本の文化に立脚した思想だ。つまり、「郷に入っては郷に従え」ということわざは、他のところからやってきた人に適応される言葉だが、ある種自己言及的な輪をもってのみ成立し得るという事実がある。

じゃあ日本のひとなら日本のことわざを強要していいのかというと、それもまた違うと思う。
そもそもことわざは、さも絶対に正しいかのような顔をしてふるまっているが、それ自体が、成立しているという事実を使って思想を正しいかのように思わせるというトリックなのである。