夏の小袖

読んだ本、活動の記録など

推理小説における推理の論理性と正確度について

こんにちは。元気ですか? 私は45%くらいです。
最近は本を読めていません。頭が回らない、小説の構想を練っている、ゲームを作っていた、暑い、眠い、ゲームを作っている、などの要因があります。推理小説は好きなのですが、何冊も積んでいます。読むスピードが買うスピードに追い付かないのですね。


少し前にTwitterで、読んだほうがいいと思う小説10選をツイートしました。


これは好きな小説を挙げたというよりも、「こんな小説もあるんですよ」という意味合いです。なので趣味全開とは言えないでしょう。好きな小説を勧めたいとは特に思いません。いえ、そもそもどんな小説でも人に勧めたいと思わないのですが……。


ところで、私はフェアでないとミステリでないと思っています。フェアさの照準がどこかはさておき、ある程度手がかりが(読者が理解できる形で)明示されている必要があると思っている、ということです。

では、フェアさの果てに何があるのかというと、論理的な推理です。
論理的な推理の目的は隠れていた真実を浮かび上がらせることでしょうが、では、推理の正確度はどう保証されるのでしょう。

真実と推理が合致しているかと、推理の正しいらしいと思われる説得力は別です。
なぜなら過去の確実な再現は不可能だからです。過去のデータを完全に叙述すると小説にならないのですが、仮にそれをするとミステリでなくなってしまいますね。

冗談はさておき、推理の説得力は、その時点で揃っているデータから過去を想像した上で、どれだけ矛盾点や不正確さを取り除いているかという点によります。

それで、ここからが本題なのですが、小説の中で繰り広げられた推理を作中の人物が正確らしいと認めたからといって、それを読者が正確らしいと思わないことがある、という問題があります。

これについてどう思うかは読者によるでしょう。私は上述の理由から完璧な推理はできないのでは、という姿勢で推理小説を読んでいるので、作者がそこで線引きをしているならそれで良いと思っています。さすがに適当すぎると納得しませんけどね。つまり、作品の不備だと思うというより、作者がそこで納得したのだと思う、ということ。それはミスというより、作者の姿勢でしょう。作者が気付かない瑕疵というのは存在し得るのですが、それも含めて作者の人となりを見ようとしてしまうようです。

同じくらい、見つかっていないデータがあるかもしれないのだから見つかっているデータから妥当らしい推理をしても仕方ない、とも思います。これはミステリの宿命というか性というか、前提条件みたいなものだと思っています。
それと、論理的な推理というのは妥当性をどこまで高めようとしても正確度が100%にはならないので、つついても仕方がない気がする、というのもあるかもしれません。
まあ、この辺りは趣味なので、本当に人によるでしょう。気力や真面目さや熱量にもよるかな。


少し話はずれますが、私はミステリはジャンルであると同時に型でもあると思っています。しかし、この型がどんな形だと思うかは人によるようです。つまり、ある人が「ミステリの型に則ればこんな物も書けるよね」と思って小説を書いても、「そんなのミステリじゃないよ」と思う人がいるかもしれない、ということ。
これは前述したフェアさの照準の違いなどが原因としてあるようです。私はなんでも良いなぁと思って読んでいるのでなんでも良いのですが、以前はもう少し厳しい目を向けていました。なぜ姿勢が変わったのかは覚えていません。いまもたぶん、全体の平均よりは厳しいでしょうけど。

まあ、これも趣味によるので、各自が好きになさったら良いのでは、と思います。