夏の小袖

読んだ本、活動の記録など

津原泰水(と私)について

今日(10月5日)のお午過ぎ、私は家にいた。するべきことをして、何の気なしにスマートフォンを見ると、Twitterから通知が入っていた。ツイートの通知を設定している米澤穂信氏が河出書房のツイートをリツイートした旨だった。
河出書房のツイートの内容は、私にとって目にしたくないものだった。
津原泰水が亡くなったというのだ。


最初に脳裏に浮かんだ思いは、やはり体の具合が良くなかったのだ、というものだった。
偶然にも前日の10月4日に、津原泰水Twitterのアカウントから二か月以上ツイートがないことを確認したばかりだった。体調が優れないのだろうと、そのときに思っていた。
その晩、私は夢を見た。津原泰水がツイートをしている夢だった。それほど気にかけていたのだろうか。果たして、正夢にはならなかった。


私は、津原作品は『ルピナス探偵団の当惑』を最初に読んだ。十年くらい前だと思う。
東京創元社の、高校生くらいの主人公たちが事件を解決するミステリを漁っていたのだ。
ルピナス探偵団の当惑』は、想像していたより面白かった。ミステリとして面白いだけでなく、登場人物が活き活きと動いている。いや、生きている。書いていない表情や繊細な動きまで見えるようだった。
読み終えてすぐ、続編の『ルピナス探偵団の憂愁』を買って読んだ。読み終えて、私はこの世の神秘のような、これまで触れて来なかったような美しさに出会ったような気分になった。あのラストほど美しいシーンはない。すべての創作物で一番だと思う。

私はそれで、津原作品の虜になった。『11』を、『綺譚集』を読んだ。短編の名手であり、文体の魔術師であることを知った。『ブラバン』を、『たまさか人形堂物語』を読んだ。やはり人物がすぐそこにいるようだった。『ヒッキーヒッキーシェイク』は発売日に買って、半日で読んだ。


それは表現力や描写力を飛び越えて、創造をする力だったと思う。津原泰水の書いた小説の中には、世界がある。読者はそれを覗き込んだり、あるいは気が付くとそこに飛び込んでいたりする。私はそれが堪らなく好きだ。


私にとって、津原泰水は特別な作家だ。
私がミステリ以外の小説を読むようになったのは津原泰水の影響だし、文章力においての世界一は津原泰水だと思っている。

なんとなく、静謐の中でひとり文章を、言葉を磨く職人のようで、かっこよかった。絶対的に他者が真似できない地平に立っていた。
その姿が果てしなく、遠くへ行ってしまった。


津原作品において、生者と死者が同じ地平に描かれることがある。
果てしない幻視の彼方である。

私は、まだ訃報が信じられないのかもしれない。
津原泰水が、その小説の中の地平へ行ってしまったのではないかと思ってしまう。
その生者と死者の交じり合う幻視の霧の中へ、姿を消してしまったのではないかと。