映画「国宝」をみた
こんにちは。ブログを書きます。
先日、映画「国宝」をみにいった。よかった。きょうは、何に対して私がよかったと思ったのかを書きたいと思う。
まず、前段の話として、映画「国宝」の大体のストーリー展開は人から聞いて知っていた。なんと、知っていたのである。といっても、みた人から「こんな話でね」と聞いた程度だったので、あまり大きな影響はなかった。というか、その話を聞いて、映画をみたいなと思った次第。
それで、そのストーリー展開の話を聞いた段階で、なんとなく好きなタイプの映画だなと感づいていた。私が好きな映画といえば、人生の交錯と結実、そして生きていくということを描いているようなものだ(ミステリーとホラーを除けば)
だから、みにいってみようと思った。で、みにいったらよかった、というわけである。
さて、前置きが長くなったが、ここからは、内容の話になる。なので一応、ネタバレがあるので気をつけてほしい。お前がいうなという向きもいらっしゃるだろうが、映画をみてから感想は読んでください。みた方が読むことを想定して書きますので、大まかなストーリーなどはおさらいしません。
それでは、まず、なにがよかったか。
それは、前述の通り、人生の交錯と結実だ。
映画「国宝」では(原作小説はいまよんでいるのであるが……)、大きくいえば二人の人間の人生の交錯を描いている。伴走といってもいい。二人の人間が、ときに支え合い、憎しみ合い、そしてまた二人で歌舞伎というものへ身を捧げんと手を取り合う。
その主人公たちの、そうすることでしか生きられないという生き方、そこに胸をうたれる。
かれらは、歌舞伎というものの中に生きる化け物にならんと芸を磨き、生と死の狭間へ向かっていく。それは舞台という装置によって作られた異界のなかに存在する極地であるが、特に吉沢亮演じる喜久雄は、極道である父親が雪の中のカチコミで殺されたことによって、生き方(=死に方)を見せつけられてしまっている。よって、生きゆくとは(死にゆくとは)その人の信念や生き方の中の、一瞬のきらめきなのだと悟ってしまっている。あれはある種の呪いでもあると思うが、(あのシーンは硝子戸越しであることも異界への接続と異化の効果を生んでいる……)ともかく、喜久雄はその、父性(や血筋)というものから引き継いだ信念(呪い)を、一生を使って探し続けることになる。
喜久雄は、極道という男性社会の血筋(イエでもいいけど)から歌舞伎という男性社会の血筋のなかへ移り住んだことによって、その死を目にした父の父性をまた探すことになってしまう。
彼は結局、それをも悪魔に売り渡して芸を極めることになる。父が死するときに託した生き方、生き様のようなものを歌舞伎の道で探すことでしか生きられなかった彼は、映画の中ではほぼずっと血筋や家族というものに憧れをいだきそれに囚われているが、途中からその状態から脱皮し、芸の道を進んでいくことになる。ある種の、父殺しかもしれない。
で、ここで効いてくるのが高畑充希演じる春江。
私は、彼女は神であり悪魔であると思った。映画最後の舞台のシーンで、客席の春江が満足そうに笑みを浮かべるシーンがあったのだけど、彼女は喜久雄がああなることを見越して、彼の元から去ったのではないか。彼女は背中に菊を入れ、喜久雄のプロポーズを蹴り彼を日本一の役者にするといった。それは結局、成就したのである。
私は映画をみながら、春江は"ツキ(=憑き物)"であり、幸運の女神なのだと思った。だから、彼女が喜久雄の元から去ると同時に喜久雄の人生は荒れてしまい始めたのだと。
しかし、見終わったときに思ったのは、彼女は、喜久雄が魂を売った悪魔であり、運命の神であり、デウスエクスマキナ的神でもある、ということだった。
さて、映画「国宝」に関しては、書くことといえば枚挙にいとまがない。名前に隠された花(橘、菊、藤など)がどれも家紋に入るような花であること、万菊さんのシーンで映る鏡のこと、半弥の最後の舞台のあまりにも美しい「心中」の話などだ。だけど、やっぱり映画「国宝」のなにによかったと感じたかといえば、主人公たちが、そうすることでしか生きられなかったということ、生まれる人生の荒波と、しかしその中で生まれる結実の瞬間。そして、その生き方しかできない人の美しさと哀しさと凄まじさだろう。
映画「国宝」に対して私が思ったことは、そんなことだった。たぶん、見る人によっていろいろな感じ方があると思う。そんな、いろいろな要素や文脈のある映画だった。だけど、シナリオが作り物めいてない。それは映像の説得力のせいだと思う。芝居や演出や撮影や、いろいろな要素が、あの物語を嘘にしていない。それがすごい。
さて、そろそろ今回のブログもおわり。幕引きです。でんでけでんでーーーん。ぱぱん。
有料の対峙
こんにちは、ブログ。
久々にブログを書きます。それにしても充電してるスマホってタイプしづらいですね。ここまでで50回くらい消して打ち直してます。
ところで、このまえ秋葉原にいったんですよ。
何をしたという話ではないけど、秋葉原って有料のトイレがあるんです。で、それを初めて使ったんですよね。
なんだろう、ふつうに観光案内所みたいな建物で、入ると人が立っていました。店員さんというか、なんだ、えーと、なんでしょうね。トイレの守り人です。中もなんか、観光案内所みたい。
で、私が入ったときは、いっぱいなので待っててくださいと言われました。お腹が終わりそうだったのですが、大人しく待ちました。
すこしすると、奥から「どうぞー」と声をかけられます。で、扉をくぐってトイレの中のトイレ(?)に入るときに、100円払います。私はモバイルスイカで払いました。ちなみに、モバイルスイカの履歴は「物販」になります。「トイレ」でもいいけどね。よくないかな。
中は綺麗で、ゆったりとしたつくり。外は秋葉原で人はそこそこいるのにトイレとしては空いていて、落ち着く空間という印象。落ち着いてもすることは限られているのですが……。
トイレの中のトイレの中(?)では、清掃をしている人がいて、常に清潔を保っていました。ありがとう。それで、個室に入ります。個室の中も綺麗。
終わりかけのお腹と対峙をします。落ち着いた空間もあり、「こちとら100円払っとんねん」という意識もあり、しっかりとした対峙ができました。100円ぶんの……、……、対峙の成果があり、よしよし、というかんじ。
すっきりしたところで個室から出ると、広い手洗い場があります。暴風手乾かし機もありました。
個人的にはかなりよかったです。世の中にはもっと有料トイレが作られるべきだし、人々はもっとトイレにお金を使っていい。リッチな気分になります。ありがとうトイレ。ありがとうトイレの守り人。
『ババヤガの夜』を読んだ
こんにちは。ブログを書きます。
話題になっている王谷晶『ババヤガの夜』を読んだ。買ったのはダガー賞を獲る直前の、リストに入ったときだったが、読んだのは結局、賞を獲ったあとになってしまった。以下、強度ネタバレあり。
私は普段、ミステリーをよく読む。だから、日本の小説がダガー賞を獲ったときは、けっこう驚いた。いや、うそうそ。まあそのうちかな、というかんじだった。でも、王谷さんか、という驚きはあったかも。
日本の小説が英語圏やアジア、国外のあちらこちらで読まれるとは、最近よくきく話題だ。読まれているのは、私の守備範囲では、綾辻行人や横溝正史、東野圭吾、伊坂幸太郎などだろうか。だから、ダガー賞ならそのあたりの方かな、と思っていたのだ。
しかし、海外で読まれているのは、当然、ミステリーだけではない。とくに、女性作家の方々がよく翻訳され読まれている印象がある。柚木麻子、川上未映子、村田沙耶香……、私の守備範囲ではないけど、読まれているのは、なんとなく知っている。
そして、王谷晶『ババヤガの夜』の受賞である。
『ババヤガの夜』は、女性ふたりの関係が、男性社会で育まれる話だ。男性たちによって抑圧される女性、というテーマ、そしてそこから発生するミステリー的モチーフ、そしてトリック。いまは、小説性に対する読み解きは別の方々に譲るとして、ミステリー的なところを読んでみたい。
さて、では、いよいよトリックの話である。
本作におけるミステリー的な部分は、とあるトリックによると思う(もちろん、そんなことしなくても犯罪小説ではある)が、そのトリックというのは、時間と性別を誤認させるものだ。それに使われているものの一つに、いわゆる、役割語がある。
これは、役割語によって、一緒に暮らしているらしい二人が男女であるというミスリードを強調している、というトリックだ。あ、こういう喋り方のおじさんいるよね〜という心の隙を突くシステムになっている。
そして、そのような誤認こそ、この小説のテーマだと思う。
この物語は、男性社会によって抑圧され可能性を搾取される女性が、自らの手によってその押し潰さんという力を押しのけるというものだ。主人公の女性二人は手に手を取りあい、オリジナルな関係を築く。そして、それをこそ力に変える。そこで、トリックである。
このトリックは、男性社会の女性を応援する読者に対してこそ、隠れていた先入観を刺し貫き機能する。お前の読み方は、正しいのか?――そう問うてくるようだ。ただ、はっきりいって新しいトリックではない。よくある、というか、もはや、ミステリー作家は書けないだろう。(このあたり、王谷さんに分があったという感はないではない)しかし、それを使う必要があった、という気がする。必要十分条件としてのトリックとして、それはミステリーの国から王谷晶というジャンルに囚われない作家へと受け渡された。それこそが、日本の小説がダガー賞を獲る契機になったのだと思う。
このように、読者の先入観を問うために仕掛けられたトリックというのは、まあ、ある。例えば……とは言えないのですけど、某ミステリー小説の賞を獲った"あれ"とか、私は真っ先に浮かぶ。
しかし、そう、この物語のように、女性性や男性性のようなものに対するある種のアンチテーゼとして機能させたものは、まあ、うーん、どうでしょうね。あるかな。あるか。微妙だ。私が先立って挙げた"あれ"とか、そういう感じではあった。
ただ、この小説は、あきらかにミステリー読者に読まれることを想定していない。王谷さんがダガー賞のスピーチでおっしゃっていたような、日本の小説のジャンル分けのようなものを意識していないのだろう。そういう、区分けに属しませんよ、という力強さこそが、この小説の強さではあると思う。つまり、ミステリー的手法を使った、ミステリー読者に読まれることを想定していない小説こその強さである。
それが、海外でミステリーの賞を獲った。たぶん、イギリスあたりのほうが、区分けが曖昧なのだと思う。日本でだって、乱歩のころはもう少し曖昧だったのではないか。横溝正史やゴールデンエイジに影響を受けた新本格、新本格に影響を受けたポスト新本格、それらに影響を受けた現代の作家……。そうして日本のミステリーはガラパゴス的に先鋭化していった。ある種、日本的な、職人意識ではないかと私は思う。
『ババヤガの夜』は区分けの外側にいた。ダガー賞の選考委員(?)の人が、「ダガー賞あげちゃお」と思っただけだ。区分け意識については、私はどうでもいいと思っているが、ミステリー作家ではない人のミステリー的手法を使った小説は、もっと読みたいかなと思う。だけどやっぱり、ミステリー小説作家の書くミステリー小説も読みたい。なんだかんだでなんでも読みたいわけである。
さてさて、まあ、書きたいことは書いたかな。書くのに1日かかってしまった。まあいいか。では、また。
『きさらぎ駅 Re:』をみた
映画『きさらぎ駅 Re:』をみた。なので感想を書きます。『きさらぎ駅 Re:』と『きさらぎ駅』のネタバレあり。
映画『きさらぎ駅 Re:』は、映画『きさらぎ駅』の続編として公開された。内容も、正当な続編になっている。
『きさらぎ駅』は、もちろん、あの都市伝説だかネット怪談だかの「きさらぎ駅」がモチーフ。その話を聞いた大学生が、きさらぎ駅の調査をする、という内容だ。
『きさらぎ駅』は、ホラー映画として公開された。そして、スマッシュヒットを記録する。
そして、その続編である。
『きさらぎ駅 Re:』は、ホラー映画の続編だ。ホラー映画として、公開されている、はず。
だけど。
映画が終わったとき、同じシアターで観ていただれかがいった。
「ホラーじゃないじゃん」
と。
私は、ホラーだと思った。観てない映画を挙げるが、「ファイナル・デスティネーション」とか、「ハッピー・デス・デイ」とか、そういう雰囲気かな、と思ったし、都市伝説ものに独自の解釈と捻りを加えたという点でも、好感が持てた。ホラーの文脈にある、と思った。
だけど、確かに、ホラーじゃないじゃん、も、分からなくはない。
怖くないのだ。
怖いシーンがあまりない。なぜなら、異世界にいって怪異に遭遇するという恐怖のシーンは、ほぼ、前作で見たからだ(一応、超強怪異がたぶん新しく出てくるけど)。
そもそも、一作目と同じようにきさらぎ駅へ行き、怪異と遭遇するわけだが、多くの視聴者は、前作『きさらぎ駅』を観ている(……たぶん)。だから、異世界にい行って怪異に出くわしても、「知ってるなあ」「見たやつだなあ」となることがほとんどになる。怖くはない。意外性や不思議な感じがないからだ。
では、何によってこの映画は貫かれているのか。
私は、この映画の序盤を観ているとき、「『きさらぎ駅』の追加DLCみたいだな」と思った。家に帰ったあと、Xに『一作目の二次創作みたい』とポストした。
なぜなら、きさらぎ駅のEDのあとの、後日談のような内容が始めからしばらく続いたり、かと思えば、同じきさらぎ駅という場で話が展開されるからだ。もちろん、それが悪いとは思わない。正当性があると思う。
そして、その後日談のような内容のあとに、どのような物語が紡がれるのかという予感を視聴者にさせて、『きさらぎ駅 Re:』と、スクリーンにタイトルが映される。
そのあとしばらく『ファイナル・デスティネーション』が続き、エンディングで捻りが生まれる。エンディングの捻りは、前作にもあったが、しかし、意外性という意味では、本作『きさらぎ駅 Re:』のほうが強いかもしれない。私は、素直に、あの人は、「取り憑かれた」のだと思った。すべて、それ故だったのだと。その意味で、エンディングというか真の意図は、ホラー的だといえるだろう。想像の超え方は、最近のホラー映画の感がある。『ヘレディタリー/継承』っぽい。たぶん。
私は、『きさらぎ駅 Re:』を楽しんで観た。面白かったと思う。ホラー的ホラー文脈のなかにある、正統派ホラーだと思う。だけど、はっきり言って、エンディングが流れ終わったあとに若者が一斉に話を始めるような若い町で観るべきではない、と思わなくはない。私は池袋で観て、やや失敗だったかもと思った。若者ばかりだったからだ。やはり、映画やホラーには一人で、しんみりしたい性格なのだろう。
でも、と思う。
エンディングが流れ終わったあとに一斉に話を始めてしまうということはすでに、ホラー映画の渦中にいるのだとも思う。みんな取り憑かれている。
犯人のいない謎解きの夜
こんにちは。タイトルはもじりです。
きょうはブログを書きます。書くぞ。
評論家の三宅香帆氏が、評論から考察の時代へ、というようなことをちょこちょこ仰っている。三宅氏のお話はふむふむという感じだ。ということで、ここでは別のお話をしたいとも思う。なぜなら、私は推理小説が好きだからである。お話するのは、「推理から考察の日々へ」という内容。
2025年現在、考察ということばは未だ流行し続けている。いつからだろうと思うが、三宅氏の評論いわく、「あなたの番です」「進撃の巨人」などが発端の一部らしい。個人的にはバイオハザード7体験版(本編の一部に謎解きが仕掛けられ体験版として事前リリースされた)やらも記憶にあるが、やはり漫画、ドラマ、映画などの影響が大きいだろう。
それで、最近は、なぜ推理ではなく考察なのか、ということをずっと考えている。私は、推理ならよくする。だけど、考察はほぼしない。「あなたの番です」などは少なくともミステリーの体をとっている。その謎を解かんとするなら、推理というのが適切ではないのか。なぜ考察という言葉こそがムーブメントになったのか。
私の結論は以下だ。ミステリーで推理するのは、主に、犯人の犯罪など、作中の謎の真相であるが、一方、考察するのは、作外から仕掛けられた主に作者の狙いである。つまり、推理するのは作中世界の謎の真相、考察するのは作外世界の人物の真意なのである。
たとえば、連続殺人を扱ったミステリードラマがあるとする。これに対して、犯人を推理する動きは、作中の手がかりから論理的な仮説を立てることだ。一方、考察はというと、それらしいシーンから、脚本家などのスタッフがどういうつもりでどういった物語の進展をさせるかを先読みする、という動きである。この、それらしいシーンを、最近は伏線とも呼ぶようになった。
(この伏線は、元来の意味からやや外れている、と私は思う。伏線とは読んで字のごとく、伏せられているものであったはずだが、あまりにそれらしいものを伏線と呼ぶようになって、レッドヘリングが文句をいわれるようになってしまった……、気もする)
で、なぜ考察がムーブメントになったのか、である。ムーブメントになったのはなぜ推理ではなかったか。それは、考察はミステリー以外にもできるものである、汎用性の高い言葉であったからだ。
前述の通り、考察は推理とは違い、作外人物の真意や今後の展開を、外側の人間として考えることだ。つまり、作中に犯人がいらない。謎もいらないのである。
謎は、しかし、存在する――作者によって受け手へと、作品を使って外側から外側へ投げ込まれるのだ。作中に、密室のような、登場人物が謎だと認識する不思議はいらない。それらしいシーンによって、神視点から神視点へと謎が受け渡されれば良い。それで、考察という動きは存在しうるのだ。
これが、私の感じていた、推理ではなく考察がムーブメントになった謎の、理由だと思う。
私感では、考察ムーブメントより、伏線ムーブメントのほうが肥大化しすぎな気がする。某氏が、伏線なんて自分で書いたものを回収するだけ、というようなことを仰っていたが、それらしくすればそれらしくなってしまう、という簡素化された『伏線』こそが、そういった感性を生み出すのではないか……と思わなくはない。
と、いうことです。はい、ではまた。
漫画「CHANGE THE WORLD」の1巻を読んだ
置き去りにされた命は…置き去りにされたもののためにある…!
(「CHANGE THE WORLD(田川とまた/小学館)」1巻 第3場より)
田川とまた「CHANGE THE WORLD」の1巻を読んだ。
すさまじい、と思った。なにが、というのは、よく分からない。
以下、1巻の感想を書きます。軽微なネタバレあり。
物語は、高校演劇を主として描かれる。主人公は男子高校生。彼はいろいろあって、とあるクラスメイトの女子生徒に、演劇を一緒にやろうと持ち掛ける……というのが1巻の大筋。
主人公の男子生徒は、中学生のころは己の演技を磨き舞台に立つことをしたが、高校生になった彼は、モノローグで「僕には演技の才能がない。」という。そして彼は、演劇部に誘う女子生徒に対して、一本の脚本を書くのである。
1巻の途中で彼は、とあることに気が付く。それは、物語を、台詞を、演劇を作る上で、重要なことだった。私が一番感動したのは、そこだった。それは、信じるということだった。
演劇というものに対する解釈のひとつが、そこにはあるだろう。主人公はそれを、かの女子生徒の演技から感じ取る。
私は、それこそが、演技と嘘の違いではないかと思う。信じること。それが人生であると。それが虚構ではないと。あるいはまた一つの真実であると。
そして、嘘のにおいのしない、その人の信じるものこそが、受け手には届くのではないか、と私は思った。
個人的なことを書くと、私は趣味で、小説を書くことがある(といっても、ここ数か月は書いていない)
それで、自分の作ったものが人に届くというのはどういうことか、ということは、やはり考える。
自分の創出したもの、自分の表現した感動が、ほかの人の心を動かす。そのすさまじさたるや、とても計り知ることはできない。
「CHANGE THE WORLD」を読んで、そんなことを改めて思った。
きっと、作者もまた、信じて漫画を描いているのだろう、と思った。
◎
ところで、この漫画は、お話だけではなくて、絵もいい。なんというか、まったく舞台演劇的だ、と思う。いや、どうだろう。舞台の演劇って、正直、一回しか見たことないです。知り合いが出たやつ。でも、生の人間が(生の人間?)すぐそこでお芝居を作り上げてるのって、すごいですよ。別の世界がすぐそこにあって、でも物理的にはすぐそこで、第四の壁はあるけど物理的には壁はなくて……、ということがすごい。あとは、やっぱり、瞬間芸術だな、という感。それまで準備してきたものがその一瞬にスパークしている感じ、というか、なんというか……。
で、そんないきいきとした人物とか生活が、コマの中にある感じが、舞台演劇的なのかも。
あと、そうそう、演劇をしているときのキャラクターと、演出がすごい。まさに、開演! という、圧倒される描写です。それはでもやっぱり、信じてるからなんじゃないかな、という感想。
adieuのライブがよかった
こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。ブログです。
昨日12月22日に、adieuのライブにいきました。正式なタイトルは『adieu LIVE 2024 mare -冬のあまやどり-』で、会場はZepp Yokohamaです。
なんというか、すごいよかったです。言葉にしにくいのですが、何年か経ったかな、というかんじ(いい意味で)。歌それぞれに風景があり、空気が漂い、前後感がある、というか……。楽曲それぞれが短編小説みたいで、一冊短編集を読み終わったあとの、いくつかの人生を垣間見た読後感のようなものが、ライブの残響のなかにありました。
家を出る前に、adieuのデビュー曲「ナラタージュ」が主題歌の映画「ナラタージュ」を観返したのですが、そうしたら、一曲目がそれでした。これは、すごいですよ。デビュー曲から始まるんだ、というかんじ。あるいは、これはadieuという亜空間への入り口なのかもしれないとも思いました。
ステージには、「冬のあまやどり」というテーマに沿ったであろう、水たまりのようなオブジェがいくつもあって、それもまた、鏡面から別の空間へ誘うかのようでした。雨も水面も、異空間などとの繋がりとして描かれることの多いモチーフです。
それにしても、「ダリア」という曲の、
『最後の恋と決めた
それを初恋と呼ぶのでしょう』
という歌詞はすごいですね。今回のライブで気づきました。これは、単純な、パラドキシカルふう見せかけレトリックではないと思います。これ以降これ以上はないという決意こそが、その心の動きを恋と呼ばせ得るという意味……だと思う。たぶん。
私のことをいえば、まあ、小説のコンテストのこともあり、「よるのあと」は思い入れのある曲です。だから、それも聴けてよかった。ひとの心に感動を届けることのすごさを思い出しました。
ところで、終演後に会場を出て横浜駅まで歩こうとしたら全然たどりつかなくて、夜で、寒くて、これは遭難したな〜と何度か思ったのですが、なんとかなりました(これが夢でなければ)
帰りの横浜駅から家の最寄り駅までは、TVerでM-1を観ていました。私は真空ジェシカが好きで、しずかな余韻の中に「智春さーん」が澄み渡っていって、電車の中で笑いを抑えようとしながら帰りました。とてもいい夜でした。