夏の小袖

読んだ本、活動の記録など

新藤晴一の比喩表現について

こんにちは。元気ですか?
私は50%くらいです。いろいろなことが巻き起こりすぎててんやわんやです。


ところで、今日は久々にここでブログを書きます。中身はタイトルの通り、新藤晴一の書く歌詞における比喩表現についてです。

新藤晴一という人を知らない方のために軽く説明すると、ポルノグラフィティのメンバーで、ギタリストの人です。様々な楽曲の歌詞を書いていることでも知られています。ちなみに私は彼のことを天才のひとりだと思っているのですが、いかがでしょうか。はい、ええ……、ああ、同意していただいてありがとうございます。

はい。ということでですね、今日はそんな新藤晴一という人が書いた歌詞の中からポルノグラフィティのシングル表題曲をいくつかピックアップしまして、比喩表現について書いていきたいと思います。先に書きますが、本論は私の主観による解釈であり、「それは違うだろう」と思われる向きもいらっしゃると思いますが、許してください。許しあいましょう。メタファー(暗喩)に関しては意見が分かれすぎると思うので、あまり拾っていません。



①「なんだか愛の理想みたいだね

 『アポロ』より

はい。まず最初は、ポルノグラフィティのメジャーデビュー曲『アポロ』より、2番のサビの歌詞です。
なにが「愛の理想みたい」なのかといえば、アポロ計画が、「本気で月に行こうって考えた」ことです。
この曲の歌詞で歌われているのは、おそらく、原始的な「愛のかたち」と、進んでいく時代というもの。進んでいく時代の中でも、アポロ計画の「本気で」月へ向かおうとする力のなかに愛というものとの類似性を見たという歌詞により、『アポロ』というタイトルやモチーフに、「愛」へ向かう推進力が与えられています。



②「花が空に伸びゆくように 海を越える旅人のように
  いつも導かれているのでしょう 愛が呼ぶほうへ

 『愛が呼ぶほうへ』より

これはですね、名曲中の名曲です。もうね、知らない人は聴いてください。
花が伸びる自然の摂理と旅人の道のりを並べるあたり、新藤晴一の歌詞の世界観が如実に表れているといえるでしょう。
この楽曲の歌詞は、そもそも「愛」というものが擬人法により描かれています。もうね、新藤晴一ワールド全開です。さまざまな人々が、さまざまな姿の「愛」とすでに「出逢っている」、という歌詞。



③「悲しみが友の様に語りかけてくる

 『シスター』より

この曲は全体を通して物語のような世界を描写していて、そのなかに海の蒼さ、花の白さ、そして「あなた」の日傘の赤さが、絵画のように描かれています。私は中学生くらいのころ、この「悲しみが~」という歌詞に衝撃を受けました。こんな美しい言葉があるのか、と。
続く歌詞は、
「永遠に寄りそって僕らは生きていく」
です。もう……、私にいうことはない……。



④「心は、空を裂く号令を聞いた跳ね馬のように乱暴だけど、
  それでも遠くまで運んでくれる。

 「僕が跨った風は、いつも跳ね馬のように乱暴だけど、
  ここに留まることを許しはしない。

 『ハネウマライダー』より

この曲の歌詞は、全体を通して「心」や「跨った風」というものを「跳ね馬のよう」な「運んでくれる」ものに例えています。歌詞のなかの「Motorbike」がそれと読めるでしょう。それが疾走する様子や生まれ変わる様子などが歌われています。比喩表現によって現れたのは、生まれ変わりながらも突き進む心の疾走、そしてそれに他者を乗せ走っていく未来でした。



⑤「修羅場を演じる時代劇の ど真ん中に立ってるみたいだ

 『2012Spark』より

ここで比喩されているのは、「修羅場を演じる時代劇の ど真ん中」のような「「2012」の街」です。
この楽曲がリリースされた2012年はある種の修羅場だったといえるでしょう。(個人的には、環境が変わってまさしく修羅場のような毎日を過ごしていました)
歌詞で表現されたのは、「修羅場」に例えられた現代の中に刀が振られているという緊張感。狙い狙われ振りあった刃に発生する火花《Spark》。



⑥「音楽や絵画にあるように
  過ぎていく日々ひとつひとつに
  ささやかな題名をつけて見送ってあげたい

 『オー!リバル』より

この曲は劇場版名探偵コナンの主題歌なのですが、その映画がゴッホのひまわりを巡るコナン君とライバルの物語なのですね。そのストーリーに対して、この歌詞がある。その刹那をこそ大切に、しかし見送ろうという覚悟、あるいは孤独を感じさせます。
ちなみに、サビの歌詞に
「肌を焦がすような南風が吹いた」
というのもあります。



⑦「晴れた日も雨の日もあるように 朝と夜が今日も巡ってくように

 『ブレス』より

この曲はですね、私が一番好きな曲です。すべての音楽の中で最高だと思っています。
そもそも、この『ブレス』という曲の歌詞は、すべて暗喩だといっても過言ではないでしょう。「メロディ」というものが、人生の暗喩になっているのだと思います。そのなかで、上の歌詞へ続く部分に、
「ブレスのできない歌は誰も唄えやしない」
とある。そして、上の歌詞に続くのは、
「出会いとさよなら繰り返す 旅人のように」
という直喩。この、暗喩の歌詞の最後を直喩3つで締めるという構成。聴く人の想像力を大空へ飛び立たせる、新藤晴一という人の才能。



はい。まあ、私はブレスの話ができたので満足しました。
ぜんぜん挙げられなかったので、これがあるだろ! というものがあったら教えてください。『テーマソング』も挙げたかった。

今回はシングルの表題曲に絞ってみましたが、カップリングやアルバム曲も入れたらもっとあると思います。
そうそう、それと、暗喩ももっと話をしたかったですね。『アゲハ蝶』、『サボテン』、『EXIT』、そしてなんといっても『カメレオン・レンズ』などが挙げられるでしょう。


というわけで、今回は7曲だけ紹介しました。続きはそのうち書きます。
では。

映画「夜明けのすべて」がよかった

映画「夜明けのすべて」を観た。よかった。

前情報として知っていたことは、映画館などのCMで流れているくらいのことだけだった。原作は未読だ。

つい数日前、この映画を観た知らない人が、「すべての生きづらさを感じている人はみたほうがいい」というようなことを、ネット上に書いていた。へえ、なら観ようかな、と思った。もともと、気になっていたのだ。

一人で、池袋のTOHOシネマズへ行った。ちょうど建国記念日で、電車も街も映画館も、人が溢れていた。田舎者には大都会である。

「夜明けのすべて」は、しずかな映画だった。静謐の中に生きづらさと、そこに差す一筋の光が、ありありと描かれていた。
私も、まあ、いまだって生きづらさを感じている。だけど、以前はもっと生きづらいと思っていた。世の中は敵だらけで、ここは地獄の底で、人生なんて漫然と死を受け入れるだけの時間だと思っていた。
だけど、いまは違う。どうにか生きていこうという気になっている。
そう思えるようになったのは数年前だ。ひょんなことから、いろいろなことがあり、いろいろな人々と出会い、なにかが見えたような気がした。生きていかなければならないと思った。
映画を観て、そんなことを思い出した。

作中の言葉を借りれば、曇りの日もあるし、最悪だなと思う。だけど、夜の中での出会いは、夜明けに導いてくれることもある。夜の中でしかあり得なかった出会いもたくさんあった。ありがたいことだと本当に思っている。
やがて夜明けは訪れ、そして人生は続いていくだろう。私はまだ夜明けを見ていないけれど――それでも、夜の中を生きていこうと思っている。

「夜明けのすべて」は、いい映画だった。生きづらさを感じている人や、かつて感じていた人は、なにか感じるものがあると思う。

私は、いま見えてきている何かは、ひょっとしたら夜明けなのかもしれないな、などと、この映画を見て思った。

2023年とは

こんにちは。
最近、年末が多くないですか? 時間の流れをはやく感じるようになったということでしょうか。


ところで、個人的には私生活で諸々があるなどしましたが、インターネットに書くことではありません。インターネットに書くことがあるのか、というのは大きなテーマですが、まぁ、それはともかく、振り返りなどします。


今年書いた小説については前回書きましたので、今回は省きます。

その他あったことといえば、小説を朗読していただきました。これも前回の記事に書けばよかった。
【Web小説朗読/幻想ミステリー】朝野鳩 「人魚の湖に雪は積もる」 - YouTube

小説は発表から少し時間が経っていましたが、こうしてまた別の形になってみると、書いた自分でも発見があったりして、ありがたいお話だったな、と思っています。
そうそう、人魚の話はまた書きたいので、そのうち書くかも。設定と登場人物だけ考えてあり、あとはロジックを固めるだけ。


夏は福山雅治氏とadieu氏のライブへ行きました。来年もライブ等行きたいような気もしています。もっといろいろ吸収したり、いろいろな所へ行ったりしたいですね。経験値の少なさというのは常々感じている自分の弱点ではあります。

本ばっかり買っていますが、あいかわらずぜんぜん読めていません。最近はですね、ずっと読んでいる森博嗣のVシリーズをそろそろ読み終わりそうだなというところです。すごく好きなシリーズなので、ゆっくり読み進めています。
このVシリーズに登場する保呂草潤平というキャラクターが私は相当好きで憧れているのですが、いかんせん自分とは程遠いな、と思います。もっと余裕とユーモアと切れのある思考が欲しいところ。


ところで、来年はまた環境の変化がある予想があり、予断を許さない状況。周りの環境とか、まあ、いろいろあります。セ・ラヴィ、という感じ。違うかな……。
いま作っているゲームが、運が良ければ2024年の1月ないし2月には作り終わる計算なので、そうしたらずっと構想を練っている本格ミステリ長編小説に手をつけたいと思っています。あとは、学園ホラーを書きたい。こちらはまったく何も考えていません。

真面目なことを少しだけ書くと、人生が進んでいくと振り返ることが多くなることに、最近気づきました。振り返ってもさほど暗い気持ちにならないのは、なんというか、運がよかっただけです。


こう今年のことを書こうとすると、あまり思い浮かびませんね。書けないことが多い、ともいえる。あまり悪いことはなかったか……いや、あったか……。
そう悪い年ではなかったですが、うーん、良いことばかりでもなかったのも事実。自分でどうこう出来ないこともどんどん巻き起こりますし、うまい事やっていきます。


では。

年末は晴れているか

こんにちは。元気ですか。
私は65パーセントくらいです。まあまあといったところ。十分でしょう。

年末ですし、たまには自作に対する跋文の代わりのようなものでも書こうかなという気になりました。
自作に対して作外でやいのやいの言うのはあまり好きではないのですが、まぁ、たまにはいいでしょう。


スプリングデイ・グッドバイ | 物語詳細 - monogatary.com

monogatary.comで開催された「はじめての」のコンテストに際して書いたものですね。
コンテスト自体はだめでしたけど、まあまあ気合を入れて書いたのでそこそこ良いものになったかな、という感じ。


Loneliness is in the head.(朝野鳩) | 小説投稿サイトノベルアップ+

これは、以前書いたSF長編『キサナドゥの城壁』のスピンオフです。
研究者と研究した際に誕生したAIの恋愛のようなものを書いたもの。
こう、アイデアでSF(のような)短編を書くようなのは楽しい。


いぬのいるせいかつ(朝野鳩) | 小説投稿サイトノベルアップ+

この短編というか掌編は、バスに乗っているときに思いついたアイデアを一日で書いたものです。
ホラーかというと微妙ですが、なんでしょうね。スリラーです。たぶん。


渦のナイトフォール(朝野鳩) | 小説投稿サイトノベルアップ+

ノベルアッププラスで開催されたイヤミスコンテストで佳作をいただいた短編。
夜の街、夜の人々……、という書いてみたかったモチーフで書いたものです。これも書いていて楽しかった。


毒牙の作用(朝野鳩) | 小説投稿サイトノベルアップ+

これはですね、某氏の某短編に影響を受けて書いたものです。ちょっと影響が強すぎて一旦はボツにしたのですが、イヤミスコンに際して日の目を見たもの。


と、いった感じです。思いのほか書いていました。ぜんぜん書いていないと思っていましたが……。

いまはちょっと、ゲームのシナリオを書いている関係で小説を書いていません。これが終わったら長編ミステリを書く所存です。

では。

多重解決を面白がれるか

ミステリの言葉に、多重解決というものがあります。そのまま、解決が多重に存在するものを指す語です。

推理の後に新しい証拠が見つかって推理が否定され、また別の推理が披露されるものや、証拠や手がかりが一通り揃ってから推理が複数繰り広げられるものなどがあります。
日本では昨今流行りのようですけど、バークリーの『毒入りチョコレート事件』などが有名でしょうか。


それで、その多重解決なのですが、これは恐らくミステリの構造上の瑕疵のようなものを突いたものだと思われます。
探偵役の推理に対して別の推理が可能なのではないか、真相は別にあるのではないか、という疑念は、いまでは有名な問題になっています。

それが瑕疵なのかという話は一旦置いておいて、その問題の影響で推理の美しさや面白さに横槍を入れられるというのは、あり得るわけです。

そこで、その疑念の影響下にある多重解決は真相を見破るミステリの美しさや面白さを白けさせ、冷や水を浴びせる格好になってはいないか、というのが私の心配していることです。たぶんバークリーあたりは、ある程度それを狙っていたと思いますけど。


私は、多重解決はミステリの構造を逆手に取ったことで、内部的な面白味を面白がれる人のみをふるいにかけて面白がらせているように思っています。それが良いのか悪いのかは分かりませんけど、ライトにミステリーを嗜む人とコアなファンの間に隔たりが出来はしないかとは思います。

さらに、真相が別にあるかもしれないという疑念を面白くしようという試みは、読者にミステリの瑕疵をこそ面白がらせようとしていることなのではないか、という思いもあります。


実際的にいうと、終盤にある盛り上がりを序盤や中盤に位置されられたりするのですけど、さすがに読者はこんなに早く真相が解る訳がないという思いから話半分に探偵役の推理に耳を傾けることになるような気もします。


まぁ、趣味によるでしょう。私がなんとなく読もうと思わないというだけです。

ことわざの射程

ウガンダにはこんなことわざがある」といれているとき、それはウガンダではこういわれている、という情報を聞いている。では、外国のひとに「日本にはこんなことわざがあってね」と教えるとき――それはどんなときか。

ウガンダにいるときかもしれない。ウガンダの犬を見て、「日本には『犬も歩けば棒に当たる』ということわざがあってね」と、ウガンダにいる誰かに教えているかもしれない。
日本にいるかもしれない。日本の犬を見て、「日本には『犬も歩けば棒に当たる』ということわざがあってね」と、ウガンダから来た誰かに教えているかもしれない。

ここで(仮に置いていたウガンダという情報を外して考えるのだけど)、じゃあ、外国とかから来た人に、日本のことわざはおおむね正しいとされている、と言い張ることはできるだろうか。それはできる。なぜなら、個人の意見を発表しているに過ぎないからだ。
では、日本のことわざは絶対に正しいからそれに従わなければならないと強制することは可能か。これは否である。これは言論ではなく、他人の精神や思想の自由に触れることだからだ。

「犬というのは歩いたら絶対に棒にあたるのだ!」という意見を他者へ押し付けることがどの程度可能なのかは分からない。「犬も~」ということわざくらいなら、どうでもいいかもしれない(深く考えてないだけ?)。
では、懸念すべきはどんなことわざか。
ここが、実は私のこの記事を書こうと思った出発点なのだけど、「郷に入っては郷に従え」はどうだろう?

「ローマへ行ってはローマ人のようにふるまえ」みたいな(うろ覚えだけど)、そんな言葉もある。だけど、似たような言葉がない地域の人がもし(日本人である)自分の隣にいたとき、「日本には『郷に入っては郷に従え』ということわざがあるのだ」と、それを無理強いすることは可能か。
私は、自分が日本にいようと、別の場所にいようと、それは不可能だと思う。なぜなら、ことわざは地域の文化という観念の縛りから抜け出せないからだ。そうじゃない、誰が何と言おうと誰がどこに行こうが、「郷に入っては郷に従え」ということわざを守らねばならない、という信念それ自体は、まあいい。問題は、それを他の文化圏の人間に強制することだ。

日本にいるから日本のことわざに従うべきだ、という主張は、それ自体が日本の文化に立脚した思想だ。つまり、「郷に入っては郷に従え」ということわざは、他のところからやってきた人に適応される言葉だが、ある種自己言及的な輪をもってのみ成立し得るという事実がある。

じゃあ日本のひとなら日本のことわざを強要していいのかというと、それもまた違うと思う。
そもそもことわざは、さも絶対に正しいかのような顔をしてふるまっているが、それ自体が、成立しているという事実を使って思想を正しいかのように思わせるというトリックなのである。

朗読していただきました

こんにちは。

最近は、長編小説の構想を練っています。以前つくった設定とキャラクターとストーリーを形にしたいのですが、どうすれば長編として形になるのかまだ分かりません。はたして……。


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ところで、まめぞうさんが私が以前書いた小説『人魚の湖に雪は積もる』を朗読してくださいました。


文章は、他の方が読むことを想定して書いています。しかし、この小説を書いたときは、まさか朗読していただくことになるとは思っていませんでした。
過去自分が書いた文章というのは、ある種の過去の自分の思考ですから、それといま向かい合うというのは、なかなかくすぐったいものがあります。まして、他の方に朗読していただいている訳ですから、なんというか、不思議なこともあるなぁ、という感じですね。なかなか、言い表すのが難しい感覚です。