夏の小袖

読んだ本、活動の記録など

サーモンプディングについて

先日、初めてサーモンプディングを作りました。スモークサーモンが必要なのですが、高価なのですね。普段は焼く為の切り身しか買わないので知りませんでした。

サーモンプディングはたしか北欧の料理のはず。IKEAのウェブサイトで作り方を見ました。サーモンといえば北欧のイメージです。日本だと北海道とかかな。寒いところの魚なのでしょう。

サケは、川で孵って海に出て、また川に帰って繁殖をすると聞きます。マスは海に出ないのかな。海に出ないのは、ニジマスだけかも。そんな話を聞いたような気がします。
冬眠前のヒグマが遡上したメスのサケの卵だけを食べて身を捨てることがあるとも聞いたことがあります。知床だったかな。

そういえば、東北にサケの話がいくつかあると本で読んだことがあります。柳田国男関連の本だったはず。その中に、サケに恩返しをされる話があるとありました。よほどサケを重要視していたのでしょう。あるいは、神聖視かな。

ところで柳田国男といえば、お握りは田の神だったか精霊だったかの力の宿った穀物を心臓の形にした物だと書いていたとか(うろ覚えですが)。私は『千と千尋の神隠し』を観たときに、千尋がお握りを食べるシーンでそのことを思い出したのですが、関係があるかは不明です。

ホラーとミステリの差異について

私は、小説はミステリを主に読んでいるのですが、たまにホラーを読みたくなることがあります。ただ、人生で読んだホラー小説家は、おそらく10作に満たないと思います。

ホラーとミステリの違いは、人によって意見の別れるところでしょう。違いは明らかだと言う人も多いでしょうが(私の周りだけ?)、曖昧に感じている人もいると聞きます。では、サスペンスやスリラーはどうでしょうか。
ホラーとサスペンスだと、別の物だと言う人や、重なる所のある別の部分集合だと言う人などがいると思います。スリラーという言葉は、日本ではメジャーではないようです。

日本だと、ミステリとサスペンスの違いがよく取り沙汰されますね。いつだったかどこかの書店で、犯人が最後に分かるのがミステリで、最初から分かっているのがサスペンスだ、というポスターが貼ってありました。ですが、倒叙ミステリもありますし、サスペンスだって最後まで犯人が分からないものもあります(もっともそのポスターは1度しか見ていないので、不評だったのかもしれません)。

サスペンスというと、二時間ドラマというイメージの人も多そうです。サスペンスを謳った方が、視聴者が増えるのでしょうか。謎解きよりスリリングな展開の方が触れやすいということもあるかもしれません(thrillingもthrillerもthrillの派生でしょう)。
ミステリとサスペンスも、重なり得る別の部分集合なのでしょう。ミステリであり、サスペンスでもある作品というのはありますからね。

では、ホラーとミステリはどう違うのでしょうか。
恐怖が主体ならホラーで、謎解きが主体ならミステリでしょうか。どうもそれだけではないような気がします。
この二つも、重なりうる部分集合であると捉えらることがあります。ただ、完全に重なる訳ではない。では、なぜ完全に重ならないのか。

私は、ミステリは謎を氷解させ、秩序を戻そうとする物語だと考えています。ホラーは(私は詳しくないのですが)理不尽な混沌に襲われる物語なのかな、と想像しています。

しかし、その二つの指向性が重なることで、別方向へのベクトルになることもあるようです。
ミステリでもホラーでもある。しかもその二つの要素無くしては成立し得ない物語というものもあります。また、最後まで読むことでミステリかホラーか分かる物もあります。最後まで読んでも分からない物もあります。

ちなみに、本格ミステリというとまた別で、さらに込み入った話になりますし、後期クイーン的問題まで持ち込むと、もっと複雑な話題になります。それは今は書きません(長くなるので)。


私は、ジャンルは完成した物に対して、後で各々が感じ取れば良いと思っています(しかし、ジャンルが明確な方が探しやすいし勧めやすいというのはあるでしょう)。
ただ、本格ミステリはジャンルであり、同時に型でもあるのかな、と考えています。

『キサナドゥの城壁』が連載中です

私は趣味で小説を書いています。ネット上で公開することもあり、ノベルアップ+というサイトを主な活動の場にしています。

小説を公開し始めた動機は、自分の書いたものの価値を他人に判断してほしかった、というものでした(他人の評価を気にするほうではありませんが)。


最近は『キサナドゥの城壁』という、近未来を舞台にしたSFミステリを連載しています。しかし私は本格ミステリを好んでいて、ほとんどSFを読んだことがありません。なので、SFファンの方が満足する内容ではないかも、と思っています。ただ、本格ミステリ的かというと、そうでもないでしょう。

最初に思い付いたアイデアは、SFでないと使えないトリックでした。それで、近未来を舞台にしたのです。そこに樋口有介の小説のような、一人称小説のミステリを重ねたかった。しかし、イメージしたのは森博嗣の「Wシリーズ」のソリッドさとスタイリッシュさです。それに、私の学んだことや趣味を加えて、一つの小説にしたというわけです。

『キサナドゥの城壁』は既に書き終わっていて、全41回を予定しています。2日に1度投稿していて、11月8日に完結する計算です。


最近は、長編本格ミステリ小説の構想の細部を詰めています。二つのクローズドサークルで、それぞれ殺人が起こる話です。しかしそれは、書き終えた後に公開するかは決めていません。どこかの賞に送るつもりだからです。ですが、落選したら、供養のために公開したくなるでしょう。どのくらい手向けを頂けるかは分かりませんが……。
novelup.plus

読んでいる本と心の存在について

『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない』という、永井均の本を読んでいます(ちくま学芸文庫刊)。

中学生の男の子が、喋る猫と話をしていくなかで、様々な世の中の不思議に対して考えを深める、みたいな本です。

 

永井均は現代の哲学者です。この本も哲学方向の内容ですが、歴史や用語や哲学者のことが書かれているというよりは、子供が感じるような世界の不思議さを突き詰めて考えてみよう、みたいな感じ。文章は読みやすいです(分かりやすいという意味ではない)。

中高生向けらしいですが、むしろ、大人が読んだ方が、刺激的だと思います。大人になると、世の中の不思議さに対して鈍感になりがちですから。

 

 

 まだ半分くらいしか読んでいませんが、分からないことだらけです。とくに分からなかったのは、心に関しての件。本文に、

「中枢神経や脳と痛みやその他の心理現象との関係はね、外的な関係なんだよ。それに対してね、表情や動作や発言と痛みやその他の心理現象との関係は、内的な関係なんだよ」(本文より抜粋)

とあるのですが、これが分からない。というか、この主張の前提になっているものが何か理解出来ていない節がある。

 

いや、理解しようとすれば、たぶん、分かった気になることは出来るのだけど、その理解のまま話を進めると、私は人間の中に心という、モノならざる存在を認めることになるような気がする。

意識が「私」という存在と(物理的な)世界とを介在していることを考えると、心に対して物理的な理解をするほうが、難しいのかもしれない。

私は唯物論的な考え方をしている人だと自分では思っているけど、心がどういう形で存在しているのかは、まだ分からない(永井均がスーパーナチュラルな形で心を語っていると読んだ、という意味ではない)。

 

そこで、コロモーというサービスで、「心は存在すると思うかを教えて」という質問をしてみた。

 

coromoo.com

 

なのだが、質問をした後で、分かりにくかったな、と思った。なぜなら、心が存在していると考えている人の中にも、心身が一元的か、二元的か、など、様々な考えの人がいるからだ。つまり、「心はどのような形で存在すると思うかを教えて」とするべきだったのだろう。

 

そう思ったので、数日後に「意識とは?」という質問をしてみた。

 

coromoo.com

 

私の聞きたいことは、つまり、身体で神経伝達等は行われているが、何も感じていない人間は存在するか、ということ。哲学的ゾンビみたいなことかもしれない(私は「哲学的ゾンビ」が何を意味しているのか深く理解していない)。

 

 

この本を読み終わったら、積んでいる野矢茂樹の『心と他者(中公文庫)』を読む予定です。

ちなみに、いま読んでいる本は8冊あります。せわしないですね。