夏の小袖

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滝藤賢一は夢からさめるか

最近放送しているTVCMで、俳優の滝藤賢一さんが出演しているものの一つが気になった。滝藤さんが、画面のこちら側に語りかけてくるのだ。しかも、CMの最後に、一緒に出演している松島花さんも画面のこちら側を見て、視聴者である「みんな」に気がつくという内容。見たことがある人もいると思う。これ、怖くないですか?

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いわゆる第四の壁を破っている、ということだろうか。コマーシャルでは、お芝居のようでも視聴者に対して語りかけるというのは常套手段だ。

最近聞いたラジオCMで、商品について他の出演者と喋っていた人が、途中からリスナーに対して語りかけはじめて最終的に商品をレコメンドをして終わる、というものがあった。これも怖かった。誰が誰と喋ってたの? と思った。最初からリスナーに語りかけている分には、そういうCMとして受け入れられる。だけど、そうじゃない。

こういうものには、虚構だと思っていたものが虚構ではなかった、というパターンと、虚構の中のキャラクターが壁を破った、というパターンとがあるような気がする。前者は、小芝居がテレビショッピングに接続されているものがある。先に書いたTVCMは後者のパターンだと思う。そう見える。

滝藤さん演じる芝居の中のキャラクターは、虚構の人物だ。なぜなら、最後に松島花さんのキャラクターが画面のこちら側に気がつくからだ。最後に「お電話はこちら!」とか、そういうことを言ったら、お芝居のパートが終わり、現実(画面のこちら)と地続きの世界に橋がかかるのだけど、松島花さんが画面のこちら側に気がつく演出があることで、虚構に梁が発生してしまった。虚構であると言う事実に強度が出ているのである。

しかし、人は言う。第四の壁を破る台詞を喋ったところでそれは台本に書かれた台詞でしかないと。
画面のこちら側に語る台詞がある。しかしそれは台詞である。このとき壁は破られていない。破ったかのように振る舞われているだけだ。
夢の中で、「これは夢だ」と悟った気がするとする。しかしこれも、そういう夢を見ているだけだ。外側から夢にタッチできるようになった訳ではない。これは高次元に言及できない事実と似ている気がする。というか、そのものだろうか。
芝居によるTVCMは(そして夢もまた)、実際的には、それを見ている次元に言及できない。次元の変化に似た事象が生じえないからだ。

で、本題だけど、なぜ件のTVCMが怖かったか。それは、松島花さんが最後にこちらを見るからである。それが虚構であるからこそ、虚構の外を見ているかのように振る舞わされるキャラクターが怖い。(仮に)こちら側に気づいているとすると、存在していることに気がついていなかった接続を指摘されたことになる。つまり、自分が、気がつかないうちに虚構ではない他次元の世界を見ていた、ということが判明する。見られている側が指摘することで、見ていることが分かる。しかも、一方的に見るものとして接していた存在から、通常ありえない形の指摘をされているわけだ。怖い。